ドッキドキ!ドクター・ヘルの羅武理偉(ラブリィ)三国志珍道中☆ (12)


老爺は、一心不乱に見つめていた。
ヘルの愛用していた、鏡台を。
いや、そうではない―
「…」
光り輝く鏡面のその更に奥、その更に奥を見つめていた。
何かを探るような瞳で。
何かを探すような瞳で。
精神を研ぎ澄まし、暗黒大将軍は鏡の中に何かを探している…
がらり。
扉が、乱暴に開かれた。
「駄目だ…!やっぱり、誰も見てねえって!」
息も荒く駆け込んできたのは、ブロッケン伯爵。
三人が出発してから、かなりの時間が経っていた。
賊の討伐程度の特務が、こんなに長くかかるとは思えない。
しかしながら、ヘルたちは帰ってこないまま…
広場中、市場中走り回って彼らの消息を聞かんとしたものの、何の手がかりも得られないまま。
疲れ果ててしまったのか、ブロッケンは床に音荒く座り込むなり誰にでもなく毒づきだす。
「…」
「何でだ?!何で帰ってこないんだ?!
まさか…やられちまったのか、賊どもに?!」
「…ブロッケン」
「!…暗黒大将軍さん?」
穏やかな声が、部屋の空気を割り。
ブロッケンに呼びかけた老爺の瞳が…静かに、光を増した。

「行きましょう」

「…懸念したとおりだったようですね。
迂闊でした、やはりあの時に後を追うべきでした」
「え?!いったい何のことだよ、それ?!」
すっく、と立ち上がる。
険しいその目は、やはり鏡面に注がれたまま。
だが、一方のブロッケンは、唐突な彼の言葉に目を白黒させているばかりだ。
彼女を見やり、暗黒大将軍は言い放つ…
「手短に言いましょう。あの桜扇使いが、ヘルたちをかどかわしたようです」
「?!」
虚を突かれ、言葉を失う妖杖使いの少女。
暗黒大将軍は、真顔。
冗談でも冗句でもない、彼が事実を語っていることは(何故それを知りえたかは理解し得ないにせよ)否応なく感じ取れる。
「それ故、彼らは囚われ、戻ることができない状態にある…」
「や、ヤベえじゃねえか、それ!助けないと…!」
「もとより承知」
老練なる大斧使いは、一回うなずいた。
そのまま、空を滑るように戸口へと歩み、
「ようやく、大体の場所をつかめました…行きましょう」
「え…い、行く、って?」
音も高く、がらり、と扉を開け放つ。
途端に、室内にひそやかな夜闇が忍び込んでくる。
月は三日月、放つその光もささやかで。
その月光を浴びながら、老爺はゆっくりと呼吸を整え、己の中の気の流れを整え…
「…!」
裂帛の気合を込め、本来の己を解き放った―


「…」
「…」
「…ごめんなさい」
「もう言うな」
その頃。
ドクター・ヘルとその副将アシュラ男爵は、窓のつぶされた車に乗せられ、何処ぞへと運ばれていた。
泣き疲れたアシュラ男爵は憔悴しきり、それでも時折こらえきれぬ慙愧の言葉を漏らさずにはいられなかった。
ご丁寧なことに、二人の両手首には、木で出来た枷。
愛用の夏圏を奪っておきながら、なおも手枷をはめるという念の入れよう…
この応対振りだけでも、彼らの抵抗する気力を相当に奪っていた。
そして、それに加えて、かなりの長期間の移動…
一体何処に行こうと言うのかはまったく見当がつかないが、相応の遠方であることは間違いがない。
こうまでしてヘルと会うことを望む「ある御方」とは、一体誰なのか。
と―
その時だった。
…揺らぎ続ける車の動きが、止まった。
ばたり、と開いた扉から、眩しい太陽の光が暗い車内に入り込む。
「…うふふ、さぁ着いたわよ?」
そうして、逆光の中で妖艶に笑いかけてきたのは…あの、桜扇使い。
「ヤヌス侯爵」という「名前」を与えられた、あの女。
何らかの目的のもとに二人を連れ去った、謎の女…
「ふん、武具を取り上げた上に両手を拘束しての送迎とは、たいした賓客の扱いようだ!」
「ごめんなさぁい…だって、あなたは油断ならないもの、ご主人様」
「…」
ヘルが叩き付けた精一杯の皮肉に、桜扇使いはしれっとした表情のまま。
何の痛痒すら感じてもいないその様子に、銀髪の男は憎々しげな視線を投げた。
ヤヌス侯爵は、ようやく二人の手枷の鍵をはずし、解き放つ。
やっと自由になった手首をさすっていると、二人は車から降りるように促された―
じゃり、と、踏みしめられた大地の泣き声。
そこは、荒野―
そして、目の前には石壁に囲まれた、都市。
「ここは…」
「!」
いぶかしむヘルとアシュラの目の中に、それは飛び込んできた。
同時に、二人は顔色を一瞬で失う…
石壁の見張り台から高々と掲げられ、強い風の中で舞っているのは、
目にも鮮やかな、真っ蒼な軍旗、
それはすなわち…!
「曹の軍旗―」
「じゃ、じゃあ、ここは!」
「そう」
驚愕する二人を前に。
桜扇使いが、ようやく目的地の名を告げた。


「曹操軍へようこそ…!」


見たこともない都市の中を、歩む。
敵軍の都市の中を、歩む。
回廊―
大将軍たちが控える場所を、ヘルたちは歩む。
もちろん言うまでもなく、その脇はヤヌスとその部下たちに固められている。
例えここで刃向かったとしても、敵軍の真っ只中で…生きて戻れる、はずもない。
「ぐ…貴様、曹操軍の手の者だったのか」
「ええ、そして…今から、あなたに会ってもらうのは」
いくつもいくつも並ぶ、執務室へと続く扉。
ヤヌス侯爵が選んだのは、そのうちの一つ―
「この曹操軍きっての軍師よ…!」
ぎいい、と、きしる音を立てて、朱塗りの扉が開いていく。
…一目見ただけで圧倒されるような、豪奢な執務室。
闖入者たちの姿に、その部屋の主は刹那、眉をひそめた…
が、ヤヌス侯爵の姿を認めると、事情をすぐさまに察知したようだ。
だから、部屋の主は開口一番、こう告げたのだ―
「…ほう、お前がドクター・ヘルか!」
「…そうだ」
鷹揚に問われ、ヘルも同じく鷹揚に応える。
主は、全身に深紫の装束をまとい冷たい微笑を浮かべている。
その両の瞳は叡智と謀略で塗り込められ、底知れぬ。
銀髪の男が放つ眼光にいささかたりとも怯む様子すら見せず、彼は名乗った…
「私は、司馬懿…司馬仲達だ」
「あなたが俺をここに呼び寄せたようだな」
「ああ、その通りだ」
司馬懿、と名乗った曹操軍の軍師。
まだ年若かれども、その全身から放つ冷ややかな威圧感は、只者のものとは思われない。
だが、ヘルは彼に向かって果敢に怒鳴り返す。
「俺に何を望む、司馬懿殿よ!」
「何、単純なことだ」
吼え返してくる若き銀髪の男を、冷淡に見返して。
司馬懿は、こう述べた。


「この司馬仲達の手足となって、曹操軍を勝利に導く将となり戦ってほしい…それだけよ!」


「…だが、何故俺を!」
「お前が、あの …臥龍の知己のひとり、と耳にしたのでね」
突然の申し出に、さすがに動揺のていを見せるヘル。
誘拐されたその目的が、まさかそのようなことであったとは―!
時代は戦乱、戦を渡り歩く将が国を流れ流れることも、まったくにおかしなことではない。
だが、よもやこのような手段をとろうとは…!
ふん、と鼻で笑いつつ、司馬懿は答える。
あの諸葛亮が認めた男とあらば、使い出もあろう、と。
そして、司馬懿の次の言葉は、内実を貫き見据えていた。
「しかし、その割には…彼の地では校尉の地位にいまだ甘んじている、と」
「…」
「あの男が見出したというならば、お前にはそれなりの智勇があるに違いない。
だが、それをむざむざ看過するような袁紹軍では…その能力も十分には生かせまい?」
「…」
ヘルは、無言。
結局は、それが何よりも雄弁な答えとなる。
この大陸において、今最も強き勢力を誇る袁紹軍…
当然ながら、その威光を求めて流れてくる者も数多い。
その中において、この銀髪の男が未だ校尉と言う低い地位に甘んじているのは、確かだった。
智に優れた司馬八達が一人、仲達は甘言を持って彼に呼びかける…
「どうだ?この司馬懿のもとで、その知略を存分に発揮してみたくはないか?!」
「…念のために聞いておこう」
「ほう?何だ、申してみよ」
「断れば、どうなる」
「断れば…?」
ドクター・ヘルの率直な問いに、司馬仲達はにやり、と笑んで。
何処か芝居がかったような口調で、こう答え返しただけだった―


「…有能な将が天空に羽ばたく機会を失い、地に堕ち砕け散る、それだけだ」
「…」


ぞっ、と。
背中に、冷たい気配が一挙に駆け上がる。
ヘルの秀麗な顔が、強張った。
それは、彼らの会話を聞くアシュラも同様…
司馬懿の意図することは、明白そのもの―
そして、ヘルには実質選べる選択肢は二つしかないと言うことを示しているのだ、
…使役か、死か!
凍てついた彼を前に。
司馬懿は、続ける。
「もしお前が我が軍に下り、私の配下となるならば。まずは、お前を都尉として取り立てよう」
「…」
「それに、お前の望む物があるのならば、そいつも用立ててやる…」
「…」
「どうだ?決して悪い話ではないと思うがな、ドクター・ヘル。
私は優秀な人材を取り入れるのに躊躇はしない。お前の希望は極力かなえてやる」
ヘルは、返事を返さなかった。
いや、返せないのだ…
どれほどの好条件を並べられても。
どれほどの巧言を積み重ねられても。
異常な状態に置かれた脳髄は、麻痺しきってまともな思考へとは流れない。
感情すらも流れない。感覚さえも流れない。
文字通り―凍り付いている。
袁紹軍を裏切り、主君を裏切り、この敵軍にて生き延びるのか。
それとも誘いを断り、斬り捨てられ、この場所にて果てるのか。
どちらを選ぶべきなのか。
どちらを棄てるべきなのか。
わからなかった。
わからなかった。
選ぶ術など、何もなかった。
何もない、そのこと自体が、怖かった。
何より怖かった。
己の頭脳が考えることをやめてしまった、そのことが、何よりも、
銀髪の男を怖じさせる―!
「…」
「…ドクター・ヘルよ」
だが、しかし。
いっこうにまともな反応を返さないヘルに焦れたのか、ため息混じりに司馬懿がこう告げた時。
「お前とて、ここで消えるとなれば不本意であろう?
お前にも―」
銀髪の男の表情が、初めて、変化した。
その台詞は、彼の―耳を貫き、鼓膜を貫き、脳を揺らし、
彼の深奥を、真っ直ぐに射抜いた。


「その生涯を賭して成し遂げたい本懐があるのではないか、
そのために…この曹操軍で、この場所で、戦ってみる気はないか?!」
「…!」


深緑の瞳、その底より、
燃え上がってくる…何かが。
彼が戦いの道に身を投じることを決した、
彼が血煙の中にて舞い続けることを決した、
彼を動かしめた、
たった一つの…志(こころざし)。
はからずも、司馬懿の言葉は、それを彼に思い起こさせた。
そして、もう一つの事実も。
もし、彼が真摯にそれを追い求めると言うのならば―
戦う場所、それ自体が志を為すのではない、
「戦い続ける」こと、彼が何処に在ろうとも戦い続けること、
それこそが何よりも重要なのだ、ということ…!


「へ、ヘル様…!」
「…」
司馬仲達の言葉に打たれ。
黙りこくったまま、司馬懿を見据えたまま、立ち尽くしたまま、動かぬヘル。
彼を案じたアシュラが、思わずそばに駆け寄る…
と。
「!」
…ふわり、と、彼の大きな手のひらが降りてきて。
静かに、彼女の頭をやさしくかきなぜる。
そうやって、アシュラに一瞬目を転じてから…銀髪の男は、再び司馬懿に向き直る。
「…そうだな、司馬懿殿。確かに、そうだ」
「ヘル様?!まさか…」
「アシュラ」
動じる己が副将を、穏やかに制して。
ヘルは、告げた―
新たなる決意を。
「確かに、そうだ。俺はまだ、何も成し遂げてはいない」
彼の志。
一刻も早くこの戦乱を終わらせ、平和な世。
人間しか感じることの出来ない、「美」。
その美しさを愛することの出来る、人間にとってふさわしい世。
「何も成し遂げぬままに死ぬのは、…美しくない。
俺は、俺の望みをかなえるために戦ってきたのだから」
この戦乱の世を越え、この悪夢の世を終わらせ。
そして、
皆が安堵して日々を暮らし、この世界の美しさを愛でられるように。
それが…それこそが、彼の望み。
ならば。
それならば、この曹操軍において、戦い続けて。
そして、その志を達することも出来よう、と―!
「…はは、それに」
弱々しげに、端麗な顔を歪ませて。
ドクター・ヘルは、何処か哀しげに微笑った…
「…ここで部下のお前まで巻き添えにしては、なおさらに美しくないからな…!」
「…〜〜ッッ!!」
アシュラ男爵の瞳に、涙が満ちる。
執務室に、司馬懿の声がわずかに反響していく…
「腹は決まったか、ドクター・ヘルよ」
「ああ」
凛、と、響き渡る。、ドクター・ヘルの返答。
もう、怖じてもいない。
もう、凍ってもいない。
覚悟した者の持つ、強さを背後に。
「では、返答を聞こう」
「…俺は、」
何の恨みも怒りも、浮かべないままで。
銀髪の男は、誓った。
新たなる主となる軍師に向かい、拱手し、誓った。
力強い声音が、彼の決意をはらんで―
「俺は、今から…あなたの配下となって戦おう。
我が武略、我が知略…たった今、この瞬間から、司馬懿殿」


「全て―あなたの物だ」
「…よろしい!」


「では、これで話はまとまったな!お前たちの宅も早速用意させよう」
「感謝する」
「他に望むものはないか?」
ヘルの答えに、司馬仲達は満足げな、それでいて「こうなることは既にわかっていた」というような、不遜な表情を浮かべた。
その余裕綽々な態度のまま、悠然と…彼は、配下に加わる決断を下した男に問う。
…と。
「ある…が、」
「申せ」
ヘルは、少し難しげな顔をした。
叶えられるとは到底思えないような、彼の希望。
それは、いまだ自分たちの帰りを待っているであろう、あの二人のこと…
「…袁紹軍に、俺の部下を二人残してきた。できるならば―」
「…来てるわよ、もう」
…が。
ヘルがその言葉を最後まで告げるその前に、扉の近く…今まで黙って侍していたヤヌス侯爵が低い声でつぶやいた。
その言葉に二人が振り返ると…
「!」
「あっ…?!」
驚きで、二人は言葉を失う。
そこには、彼らがいた。
…大斧使いの暗黒大将軍、妖杖使いのブロッケン伯爵。
一体何故自分たちがここにいたことがわかったと言うのか…?!
愕然とするヘルとアシュラの前に、だが、確かに彼らは立っている。
「ど、どうして?!」
「暗黒大将軍のおっさんが…そ、空飛んで、」
「それはいいのですが、…ドクター・ヘル」
ブロッケン伯爵は、この状況に困惑しているようだが…
彼女の言葉を押しとどめ、老爺が一歩、前へ歩み出た。
その表情には、憂慮と配慮。
ヘルたちを助け出すために来たが…当の彼自身の出した答えは、それとは異なっていたからだ。
先の会話を聞いていたのか―
暗黒大将軍は、既に彼の決断を知っていた。
「…決めてしまわれたのですね」
「…ああ」
「それで、よかったのですか?」
「…」
問い掛けられ、ヘルはうなずく。
さらに問い掛けられ、ヘルは一旦口を閉ざす。
そうして、
少しだけ、考えて…
銀髪の男は、微笑って、言った。
「これも、天佑かもしれない」
「…」
「新たな機会を、思わぬ形とは言え…得た、ということになるのだから。
だから、」


「これは、おそらく―天佑なのだ」
「…そうですか」


「すまんな」
「意外でしたが…あなたが決めたことならば」
「ああ、別に気にすんなよ」
暗黒大将軍の言葉に、ブロッケン伯爵も同意した。
やや呆れ顔で、それでも笑いながら…妖杖使いの少女も、ため息混じりに。
「どこにいようが、あんたはあんただぜ…そうだろ?」
そう。
何処にいようが、ドクター・ヘルはドクター・ヘル。
美しさを愛し戦う、平和を求めて戦う、
何処にいようが、それが変わることはない!
…と。
彼のもう一人の副将が、また涙を浮かべながら…銀髪の男を見上げる。
「ヘル様…」
「アシュラ」
「ご、ごめんなさ」
「もう言うな、と言ったろう?」
そして、これまで旅路の途中に幾度も幾度も聞かされた詫びの言葉をまた口にしようとする。
くすり、と、軽い微笑みでそれを封じて。
ドクター・ヘルは、さっぱりしたような顔で、破願した。
「いいのだ、アシュラ。これも、天の采配。
何処にいようと、そう―」


「俺は、常に美しく在ればいい。それだけだ」
「ヘルさまぁ…!」


そう、彼の名は。
彼の「名前」は―


曹操軍軍師・司馬仲達の新たなる配下となった男…
ドクター・ヘル。




何処にいようが。何処に在ろうが。
それは、それだけは変わらないのだから。





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