A War Tales of the General named "El-raine"〜とある戦記〜(41)


特務・「疑惑の真相」

うららかな日差しの中。
草原の中を、曲がりくねった川がさらさらと流れ続けている。
透明な水ですら底が見通せないその川は、思ったよりも深いようだ。
さらさら、さらさら、と、流れを止めることなく。
―と、そこに、一人の男が釣竿を背負ってやってきた。
おもむろに岸辺に座り、釣り糸を川面に放り込む。
数分もしないうち、また一人の男が現れた…
が、彼は先客の顔を見ると、何やら口汚く相手を罵り始めた。
釣りをしていた男も同様、新たな釣り人を見るや罵声を返す始末。
しばらくぎゃあぎゃあとやかましい言い争いをしていたが、そのうち口では足らなくなったか…どちらともなく相手に飛び掛り、揉みあいはじめた。
そして、そんな足場の悪いところで争うものだから―
…ばっしゃーーん!
揺らぐ水音、驚く魚。川に転げ落ち、泡を喰って手足をばたつかせる男二人。
見た目以上の川の深さに幾分動転したか、多少慌てたものの…
それでも、二人とも、何とか川岸にたどり着く。
しかし濡れ鼠の二人、まだ争いに飽き足らないらしい。
興が失せたのか釣りはあきらめるようだが、ぎゃあぎゃあ言い争いながら川から去っていく…
びしゃびしゃと水滴を地面に散らばしながら。
そうして、再び川に静けさが戻る。
さらさら、さらさらと川は流れ続ける―

が。

ゆらり、と、
誰もいなくなったその川に、濁った黄色い、一対の三日月。
その双月は、怒鳴りあいながら去り行く、あの二人の男の背を見ていた…



ゆらり、と。
一対の黄色い三日月が、狡猾に笑んだ。



「―ッ、だからあッ!」
がん、と、苛立たしげに男が卓を殴りつけた。
「俺はやっていない!何で俺が自分の家の物を盗んだりするんだよ!」
「それは私とて同じ!」
大声を上げた男に対抗するように、卓の向かい側に座るもう一人の男が声を荒げた。
しかし、それを半ば嘲笑うかのように、男は唇を歪めて見せた。
「…はん!こずるいお前のことだ!
祝いの席で当主の俺に恥をかかせようと言う魂胆だろうが!」
「なッ…何て言うことを?!」
あけすけな挑発に、対面する男の顔が青ざめる。
驚き混じり、怒り混じりに言い返す。
「私の家でも端午の節句を祝う菖蒲が盗まれたんですよ?!
その私が、何故…?!」
「はっ、どうだか!」
「…ッ!」
男は見下すかのような目線でその抗弁を跳ねつける。
もう一方の男も、相手のその不遜な態度にこめかみをひくつかせる―
卓を挟んで、にらみ合う二人のこの男たち。
彼らがかつては仲の良い兄弟であったとは、一体誰が信じようか…
「…」
「…」
「…この有様です」
困惑の表情で立ち尽くし、彼らを見る女将軍とその副将。
二人の背後から、解説官の重苦しいため息が聞こえた。

知り合いに呂葉と呂真という兄弟がいるのですが、近ごろ様子がおかしいのです
2人は商家の息子で、ついこのあいだまで兄弟仲良く商売をやっていたのです
しかし いま2人は互いに互いを泥棒であると訴えているようなのです
まずは2人から詳しい話を聞かなければならないのですが
私にもここでの役目があります
そこであなたにいわば事件の真相を探ってもらいたいのですが…

解説官殿から、蜀軍衛将軍・エルレーンが請け負った依頼。
それがこの呂家に起きた盗難事件の犯人探しだった。
呂家といえば、この街で一、二を争うほどの大商家であり、また代々端午の時期ともなれば魔除けの儀式を率先して行なうことで有名であった。
しかし、今年…よりにもよって、その儀式に使われる「五色の糸」と「菖蒲」が何者かに盗まれたと言うのだ。
だが、何よりも人々を驚かせたのは…呂家の現当主たる呂葉が犯人として弾劾したのが、他でもない実弟・呂真であったということだ!
当然のごとく呂真は否定したし、逆に「自分を犯人扱いして呂家より遠ざけようと言う魂胆だ」と反対に兄を非難した。
解説官の前ですら、彼らはこの様に互いに嫌悪感をむき出しにしている。
「けほっ、ごほっ…と、とにかく!お前より俺を恨んでいる奴がいるかよ?!
お前に決まってるんだ、大人しくお縄を頂戴しろ!」
「そんな?!兄さんこそ、私を陥れようとしてこんな騒ぎを!
恥を知るべきです!こんな事態まで引き起こして!」
「な、何ぃ…?!ごほっ、ごほっ!」
風邪でも引いているのか、盛んに咳き込む呂葉…しかしながら、弟を盗人呼ばわりするその舌鋒は緩まない。
さすがに弟・呂真もそのあまりの態度が腹に据えかねたのか、最早不快をいささかたりとも隠そうとはせず、兄を罵っている。
互いに歩み寄るどころか、建設的な会話すら成り立っていない。
「…なるほど、埒があかない…ね」
「このまま二人の話を聞くだけでは解決できそうもないな」
「もう少し、情報を集めないと駄目だね」
眉をひそめるエルレーンに、車弁慶も同意した。
互いが互いを面罵しているだけのこの様子を見るだけでは、どちらが真とも判断出来ぬ。
何より、まずは証言を集めねば…
と。
その時だった。
「エルレーン将軍!」
「!」
幾分か緊迫した声が、背後から少女を呼ばわった。
振り向くと、そこには彼女の主君・関平将軍が親衛隊の姿。
「関平様があなたをお探しです!
何でも、国境近くで魏軍と小競り合いがあったようで…」
「えっ?!」
唐突の呼び出しに動じる少女。
困ったような顔で、己が副将・偃月刀使いの車弁慶を見つめる…
「…ど、どうしよう」
「構わん、行って来い」
「え、弁慶先生?」
「俺と皆で、街の者に聞いて回る。この件については任せろ」
「ご、ごめんね?…それじゃ、行って来る!」
「ああ」
街のいさかい程度のことよりも、どう考えたって国境警護のほうが優先だ。
偃月刀使いは、だから早く行け、と手で少女を促した。
衛将軍殿は、短く詫びの言葉だけ口にして、親衛隊とともに慌ててその場から去っていく…
「…さて」
残された車弁慶は、一人ごちる。
できれば、たくさんの情報がほしいところ…
自分ひとりでは、多少骨が折れる。
と、なると、助力が必要だ。

「と、いうわけで…皆で手分けして、呂家について探ってほしい」
エルレーンの副将たちを皆集めた偃月刀使いは、そのように告げて説明を締めくくった。
「あー、そう言えばもうそんな季節だなあ」
「そうですね…今年はまだなのか、と思っていました」
と、直槍使いの少年と、双戟使いの女戦士がそんなことを言い合っている。
豪商・呂家は、毎年端午の時期になると、街の人々にも菖蒲を分けてくれていたのだ。
この街より邪気が払われ、清浄であるように…と。
しかし、今年はその菖蒲が盗まれてしまったというのだから…
「まあ、あんないさかいがあったんじゃ、それどころじゃないだろうな!」
「…ともかく!」
車弁慶の声に、皆が視線を彼に集めた。
「情報がこれだけじゃ、判断のしようもない。
さっそく動くぞ!」
『応!』
彼の呼びかけに応じる仲間たち、それぞればらばらに街に散っていく。
そうして街の者に聞きまわること数時間、再び集った彼らが情報をつき合わせてみると、およそ有用と思われるものはこのようなものだった。

「ああ、あんたも呂家の兄弟のことを調べてるのかい?」
陶文徳と言う男は、呂家のことを問いかけた副将たちにこう答えた。
「あの二人、この前たまたま釣りに向かった先で遭遇して。
喧嘩をして川に落ちたらしい。
どちらも子供なんだよな、結局!」
「兄の呂葉は風邪をひいてまだ体調がすぐれないと聞いたよ
「二人が落ちた川は妖怪が住むと伝わるところだから縁起がよくないよな」
「だから大事なときに五色の糸が盗まれてしまうんだよ…」

「今年は雨も多いが蒸し暑いね!
あまりの暑さでうちのカミさんは寝込んじまったよ」
羅小二と言う男は、呂家のことを問いかけた副将たちにこう答えた。
「早く厄払いをしたいもんだが…
呂家の兄弟があんな様子じゃ、端午の節句は祝えないかねえ」

「…関係ないかも知れないが
事件の夜、兄の呂葉さんを見かけたよ。
なんか偉そうな人と一緒だったな」
黄小龍と言う男は、呂家のことを問いかけた副将たちにこう答えた。
「二人は弟の呂真さんの家のほうに歩いていったようだけど
何をしに行ったのかなぁ…」

再び、回廊。
「…ふむ、なるほど。
たくさんの証言を集めてくれたようですね」
街でかき集めた情報を報告すると、解説官は髭をいらいながらそう呟いた。
「ですが…私には兄と弟どちらが悪いのか、判断できそうにありません」
「…」
「しかし、実際に話を聞いたあなた方ならそれができるかも知れません」
解説官はそう言いながら、改めて副将たちに向き直る。
「どうでしょう、二人もあなた方の判断を知りたがっています。
彼らにあなた方の見解を伝えてくださらないでしょうか?」
「…どうする?」
「う…ん」
彼の頼みに、偃月刀使いは仲間を顧みた。
副将たちの表情に、微妙な困惑が帯びる。
「証言だけ考えればさ…どうしても、なぁ?」
「あの方ではないか、と察しはつきますが…」
どうやら、彼らの脳裏にも、真犯人であろう人物は浮かんでいる…
情報の破片は、明らかに彼を示している。
後はその人物を指弾すればいいだけのこと…
にもかかわらず、煮えきらぬ彼らの態度は一体どうしたことか。
…何らかの違和感。
何とも判じがたい、説明のできない、違和感…
その違和感が、彼らの表情を曇らせている。
…だが。
「わかった。…奴らのいる部屋に」
「はい」
だからと言って、このままほうっておくわけにもいかない。
車弁慶の短い言葉に、解説官はうなずく。
そうして、彼らを呂葉・呂真兄弟の留められている部屋に導いた。
ぎい、と扉を開くと、二対の視線がばっ、と一斉にこちらを射た。
「!…結果が出ましたか?!」
「証拠が出たんだよな?!」
「…」
二人の矢継ぎ早の問いには答えず。
副将たちは、自然、彼らから目をそらした。
「さあ!はっきり言ってやってくれよ!…こいつが犯人だって!」
「兄さん!兄さんこそ怪しいんだ、さあどうなんですか?!」
「…」
副将たちの答えを急かす兄弟に、偃月刀使いの車弁慶は苦々しい顔を向け。
刹那、逡巡、
そして。
彼らが推察した、犯人をゆっくりと指差した―

「…?!」

―兄の、呂葉。
偃月刀使いが示したのは、兄だった。
「な…?!」
一瞬。
驚きのあまり歪んだ表情は、奇妙にも笑顔のようにすら見えた。
「…深夜に何者かと連れ立って、弟の家の方角へ向かっていたそうだな。
何故、そんなことを?」
「え…?!」
車弁慶の詰問に、当惑した…ような顔をしてみせる呂葉。
げほげほ、と咳き込み、慌てて言い返す。
「そ、そんなはずはない!
俺は風邪引いちまって、ここ最近夜はずっと寝込んでたんだ!」
「…どうかな」
しかし、証言のある今では、その苦しそうな咳も、もはやこれ見よがしな演技にしか映らない。
反目しあっている弟。
謎の男と呂真の家へ向かう姿。
理屈は、合っている。
合っているのだ。わかりやすすぎるほどに。
「お、俺はやってねえ!何故信じてくれないんだ…?!」
声を荒げる呂葉。無言の責め苦に、抗うように。
だが、最早この場には…彼のその言葉を聞き入れ信じてくれるような者は、誰一人いない。
誰も何も言わず、ただ冷たい視線で彼に答える…
「お前が犯人だろう?」と。
物言わぬ視線が、空気が、呂葉をじりじりと追い詰める―
彼の理性が、恐怖で断ち切られる。
「…畜生ッ!」
「?!ぐっ?!」
がたん、と、椅子を跳ね飛ばし。
絶叫。
突き飛ばされた衝撃と痛みに、戸口の前に立っていた幻杖使いの流竜馬がうめき声を上げる。
だが、呂葉はそんなことなど構いもせずに扉を破るかのような勢いで蹴飛ばし、一目散に回廊を駆けて行く…!
「に、逃げた…?!」
「兄さんッ!」
解説官の動揺、呂真の叫び。
「罪は償わなければいけません、兄を捕まえてください!」
「くっ…!」
「…俺が」
そう言うなり疾走したのは、俊足の双錘使い・神隼人。
韋駄天のごと地を蹴る彼の走りは凄まじく、見る見るうちに呂葉との距離を詰めていく…
そして!
「ぐ、ああッ!」
「…大人しく、しろ」
ざしゃあっ、と、大地に転がされた呂葉が悲鳴を上げた。
押さえ込む神隼人に、泣きそうになりながら彼はまだ己の無実を訴えかけんとする。
「違う!何かの間違いだ、俺じゃないッ!」
「だが…」
沈鬱な顔で見返す双錘使い。
呂葉はなおも言う、懸命に。
「それに街のやつらと約束してたんだ…
端午の儀式は今年もきちんとやるから、任せとけって!」
「…」
回廊に、呂葉の悲痛な叫びが反響していく。
聞く者の胸をやるせない思いで破るような悲壮さで。
「こんな事件起こすわけない…ッ、信じてくれ…!」

「事件の迅速な解決、実に見事でした…
これから、呂葉には取り調べを受けてもらいます」
一同を見送る解説官、だが「迅速な解決」という割にはその表情は暗い。
あれから呂葉は牢に送られ、盗みを働いた件について詳しく取り調べられることとなった。
疑いが晴れた弟の呂真は帰ることを許されたが、それでもその顔は苦悩で満ちていた。
「しかし…まさか、彼があそこまで必死に言いわけをするとは…」
思わずこぼれ出たその台詞は、おそらく解説官の本音であったのだろう。
呂葉の必死の抵抗は、「俺はやっていないのに、何故?!」という意志と混乱でいっぱいになっていた。
証拠を押さえられた犯人が、そこまで往生際悪く暴れるものだろうか…?
と、解説官は、同じく表情を暗くした副将たちに気づき、無理やりに笑顔を取り繕った。
「…いや、よしましょう。
事件を解決してくれたあなた方の前で失礼でしたね」
「…」
「これは呂家から届けられたお礼の品です、お受け取りください」
そうして、呂真から渡された礼金を手渡してきた…
「…」
布袋に入れられた金子は掌にずしり、と重く。
それがなおさらに、偃月刀使いの気を重くさせた。

「…後味、悪ィな」
「ああ…」
夕焼け空も、その足元からひたひたと闇色に変わりつつある。
帰り道、ぽつり、と呟かれた直槍使いの少年の言葉は、まさしく彼ら全員の本音だった。
風邪を引いて夜は寝込んでいた、出歩いてなどいない…と、必死に弁明していた呂葉。
あの懸命さは、演技だったというのか?
「あ、あの人…ほ、本当にそんなことをしたんでしょうか?」
「鉄甲鬼」
双戟使いの気弱な青年は、思わずその素朴な疑念を口にしていた。
「す、少なくとも…拙者の目には、嘘をついているようには」
「だが、街の者の話からいけば…もっとも怪しいのは、あの人です」
「…」
けれども、それに答える幻杖使いの言葉に返せるだけの理も証拠もない。
黙り込む鉄甲鬼。黙り込む一同。
ざっ、ざっ、と、地面を歩くその幾多の足音だけが、だんだんと静かになっていく空気に響くだけ。
しばしの沈黙。
「何にせよ…これからの取り調べで、それははっきりするだろう」
「そう、後は解説官殿にお任せしましょう」
その沈黙を、不意に偃月刀使いが破る。
誰ともなくうなずき、そう答えた。
「それにしても、エルレーンの奴…一人で往かせたのは、まずかったか」
「誰もお供できませんでしたから…
無事であればよいのですが」
車弁慶の言葉に、和すキャプテン・ラグナ。
唐突のことだったので、副将たちは誰も供しなかったのだが…
今になって改めて気づいたが、大丈夫なのだろうか?あの泣き虫で弱気な衛将軍殿は…
が、そんな彼らを見上げ、くく、と、巨躯の狼が微笑した。
『案ずることはなかろう。兵もある程度率いておることだし』
「…そう、だな」
魔狼・神龍剣のもっともな言葉に、偃月刀使いの表情が何処となくゆるんだのは気のせいか。
『だが…』
「ん?どったの、ワンコロちゃん?」
と。
狼が、何処か嘆息にも似たうなり声を上げる。
声をかける巴武蔵には答えずに―
『…』
神龍剣は、天空を見上げた。
鬱陶しい群雲に覆われ月も星も見えない、不愉快な夜空。
(あの男に纏わりついていた…あれは、何だ?)

「それではな」
「ええ、また明日」
「じゃあなー!」
屋敷どおりに戻った頃には、街はすっかり夜闇に包まれていた。
三々五々、副将たちは自らの家へと散っていく…
夜に溶け込んでいく、仲間たちの背中。
「ふう…」
それを最後まで見送って、偃月刀使いもまた己が居へと足を進めた。
今日はやたら気疲れしてしまった感じだ。
呂家の事件が、あのような結末でよかったのだろうか…?
結果を決めたのは、自分たちだとは言え。
それでも車弁慶の心の中にも、割り切れぬ思いがぐずぐずと残っていた。
しかし、これでよかったのだ、と己に言い聞かせる。
そうとしか判断できなかったのだ、仕方がないではないか…と。
歩く。夜の路地を、一人歩く。
人気はない。静かな闇の中、歩く。
…と。
(…?)
不快感を、感じた。
歩き続ける自分を、誰かが…見ている。
人っ子一人見えないこの夜の中、誰が…?
気のせい、かも知れない。
だが、偃月刀使いの戦士のしての本能が、ちりちりと脊髄に燃えるような痛みを生ずる。
「気配」が、俺を―見て、いる。
「…」
歩みを速める。我知らず。
だが、「気配」はそれでもついてくる…確実に。
「…ッ」
初夏とは思えないぐらい、寒い闇。
冷え冷えとしたその「気配」が、
「誰だ?!」
偃月刀使いは、振り返る。
怒鳴りつける。ざっ、と、殺気を込めて相手をねめつける。
―が。
その途端、彼の心臓が…驚愕で、しめつけられた。
「…?!」
声を失う。顔色を失う。
暗い闇の中にぼうっと立ち尽くしているのは、男だ。
男だ、嗚呼、
先ほどまで顔をあわせていた、そして今は牢にいるはずの―!
「り、呂葉…?!お前、捕えられたはず、ッ」
呂葉。確かにそれは、呂家の長男、呂葉。
にやにや、にやにや、と、気色の悪い笑みを浮かべ、こちらを見ている。
呂葉の口が、ぱかり、と開く…

<オまエハ ツかえソう だ>

歪み、滲み、金属をこするような―音。
呂葉の唇が蠢きそこから出でた声は、人間の出すものとは思えなかった。
「な…」
じり、と、偃月刀使いは、一歩下がる。
ぐらりぐらり、と、呂葉が首を奇怪に揺する。
出来の悪い、木偶人形のような動き…
木偶は、呂葉の形をしたそれは、車弁慶を見やり…不快極まる異形の声で、こう言ったのだ。

<わレト ショうが アいそウダな…
ワが 走狗ニ つかエソう だ>

「?!」
偃月刀使いは目を見張る。
ぎょろり、と、呂葉は目を見開いた…
その目は、すべて、黒かった。
夜の闇より、なお黒かった。
「――」
刹那。
背に負った偃月刀を振るう間すら、なかった。
呂葉が、散り散りに「裂けた」のだ―
四方八方に散らばる、いいや違う、
違うもともとが人間でなかったのだ、人ですらない、
それは漆黒の闇が、暗黒の雲が寄り集まったものでしかなかったのだ
散った闇は拡がり拡がり拡がり拡がり
車弁慶の眼前を、肉体を、精神をあっという間に飲み込んで



そして 闇が 侵食した。




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