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◆ 誘拐狂詩曲(Kidnap Rhapsody)〜pianississimo〜
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「ブロッケンさーん!どこ行くのぉ?」
「…!」
ブロッケン伯爵の歩みを止めたのは、その静かな森に不釣り合いなほどの明るい少女の声。
虚を突かれた彼が振り返ると、いつの間につけてきたのか…そこには、エルレーンの姿があった。
…それを見た彼の表情に、多少ばかり面倒くさげな色が浮かぶ。
「…別に。たいしたことじゃない。…帰れ」
「えー?」
率直に追い返そうとしたものの、少女はめげる様子すらなく。
むしろ、ちょこちょことブロッケンの傍に走り寄ってきて。
「それ、なあに?」
「…」
「ねーえ、それ、なあに?」
「…」
嫌そうな雰囲気を押し隠しもせず発散しているブロッケンに対して怯む様子もなく、彼の右手に持った少し大きめのモノを指して問いかける。
どうやら、楽器ケースに興味津々のようだ…
困惑と煩わしさが少しばかり、無表情気味の伯爵の顔に浮かぶものの…少女はそういったものを敏感に感じ取れるような性質ではないようだ。
数秒ばかり、無言という態度で返答していた伯爵だが。
…やがて、それも無駄だと悟ったか、けだるげな吐息と入り交ぜてエルレーンの問いに答えた。
「…ヴァイオリン、だ」
「ばいおりん?…ばいおりん、って、なあに?」
「…楽器」
「へーえ!どんなの?見せて見せてぇ!」
「…」
どうやら、彼女は「ヴァイオリン」自体を知らないのか…
新たな言葉、新たな概念に、ぱっ、とその瞳が知的興奮で輝く。
今度こそはっきりと、ブロッケンが嫌そうな顔をしたが…好奇心を刺激されてしまったエルレーンは全然それに気づくこともなく。
きゃらきゃら笑いながらその楽器を見せろとせがんでくる。
仕方なく、ブロッケンはケースを大儀そうに開き…中で眠っていた、その使いこまれた弦楽器を彼女に手渡した。
「ん〜…?これ、吹くとこ、どこ?」
「…?」
「はーもにかみたいに、吹くとこがないねえ」
それをうきうきと手にし、くるくると回して観察する少女…
しかしながら、吹き口?がないことに不思議そうな様子だ。
「吹くものじゃない…弾くものだ」
ブロッケン伯爵は、左腕に抱えていた己の首を胴に据え付け、ヒトの姿に為る。
そうしてから、彼女からヴァイオリンを取り上げ…
左肩と、左顎の間に軽く挟むように構え。
右手に持った長い棒…「弓」を軽くヴァイオリンの弦に当て。
―軽く身体をしならせ、引く。
「わあ…!」
思わず、声をあげるエルレーン。
木立の間を、なめらかな音が渡っていく。
風がさわさわ、と、葉擦れの音をその伴奏と変えて。
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番が、彼女以外観客のいない夜の中で、静かに鳴り響く。
エルレーンは目を閉じ、うっとりとその音色に聞き入る。
人里離れた森林、星空の下。
奏者は一人。観客は一人。
たった二人の、コンサート。
「おーい、エルレーンのお姉ちゃん!」
「あっ、元気くん!」
「ブロッケンさんと、何してるの?」
―と、そこに。
後を追いかけてきた、早乙女元気。
…やかましい観客がまた一人増えたことに、伯爵はついまた深いため息をついてしまった。
「見てぇ、『ばいおりん』って楽器、だって!」
「バイオリン?」
「ブロッケンさん、楽器が使えるんだねぇ…すごいねぇ」
先ほどまでの静けさが嘘のように、にわかに騒がしくなった森。
…百鬼帝国との戦闘(と、その後のエルレーンとのやり取り)。
そのせいで苛立つ自分自身を落ち着かせようと、独りでやってきたのに。
何故か子ども二人に絡まれ、周りできゃわきゃわとやかましい…
そんな沈痛そうなブロッケンの表情にはまったく気づくふしすら見られない二人、楽し気にしゃべっている。
…すると、その会話の矛先が、突然自分にも向いてきた。
「ね、もっと聞かせて?ブロッケンさんの音楽、聞かせてほしい…な」
「あー、僕も聞きたい!弾いてみてよ、ブロッケンさん!」
「…ね?だめぇ?おねがーい!」
「ねー!ねーってば!」
きゃわ、きゃわわ、きゃわわわわわわ。
まったく、子どもの会話というのは…どうしてこんなに、けたたましいのだろう?
無駄にエネルギーに満ちあふれていて、それでいてこちらの話を聞かず…!
…無意識のうちに、頭痛でもこらえるかのように、ブロッケンは額に手をやってしまっていた。
「…」
しかしながら、抗弁しても無駄であろうことは、先ほどのエルレーンとの会話でとうに知れていた。
やっても無意味なことは、繰り返す意味がない…
合理的判断は、正しいながらも面倒なことを彼に強いる。
不承不承、彼は…うるさい子どもたちのリクエストに応えざるを得ない。
「はあ…」
せめてもの皮肉に、当てつけがましいため息をわざとらしくついて見せるものの。
きゃわきゃわとした子どもたちは、そういったものを理解してはくれず…むしろ、わくわくきらきらした目でこちらを見つめ返してくる。
沈黙したまま、ブロッケンは再びヴァイオリンを構え、右手の弓を空に舞わせる。
弓はゆっくりと弦の上を滑り、音楽を奏でだす。
「わあ…」
「…!」
ヴァイオリンが生み出す豊かな音のストリームに、思わず声をあげるエルレーンと元気。
ぺたり、と、地面に座り込み、曲に聞き入る。
軽く目を伏せた伯爵は、既に幾度も弾いたその曲を、容易く演奏し続ける。
白い手袋が、踊っている。
弦とフレットの上で軽やかにステップを踏む左手の指、緩やかに行きつ戻りつする弓を操る右手。
その下に、鋼鉄とパイプが形作る機構があろうとは、誰がわかろうか…
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ。今度は、第2番・Andante.
切なさを含んだメロディーが、少女たちの鼓膜を、こころを揺らす。
人里離れた森林、星空の下。
奏者は一人。観客は二人。
たった三人の、コンサート。


しばし、時と旋律だけが、その空間を不可思議に埋め。
やがて、伯爵の脳内にある楽譜も、最後の部分に差し掛かる。
高い音、低い音。移り変わり、
そして…ことさらにゆっくりと弓を引けば、長く長く音が伸び、それが曲のエンドマークとなり…
引き抜いた弓が、すうっ、と、ヴァイオリンから離れて空に浮く。
ふつり、と。
余韻を残して、音が森に吸い込まれ…消えていく。
奇妙なコンサートは、そうして、終わった。


静寂。
その場の空気が、静止し―豊かな無音が、数秒続いた後。


「わー!すごいねぇ、きれいだねぇ!」
「…それは、どうも」
きゃらきゃら笑いながら、ぱちぱちと拍手するエルレーンと元気。
惜しげもない称賛に、しかしながら…鋼鉄で組まれた伯爵殿は、金属並みに冷たい答えを事務的に返すのみだった。
「ブロッケンさんは、音楽が好きなの?」
「…別に」
元気の問いかけにも、別段、うれしそうでも、楽しそうでもない。
平坦な口調で、短く、そう言うだけ。
それは、嘘をついているようには到底感じられず、ただ事実として述べているだけのように聞こえる。
「ただ…気を落ち着かせたい時に、弾いてみるだけだ」
「そうなの?」
「そんなに上手にばいおりん弾けるのに…」
エルレーンの「どうして?」という感じのセリフにも、目線を合わさず、何も言わず。
何処か投げやりな、無気力、無関心。
色のない、色の見えない、ブロッケン伯爵の表情を見やりながら…元気は、先ほどあしゅら男爵が言い放った言葉を思い出していた。


(あいつは、『死にたがり』だからな)

(あいつは、生きてはいない。生きようとしていない。ただ、死んでいないだけだ)

(自ら生きようと、あがこうとしない。自ら生きようと、望みすらしない。
死神の影を引きずって、引きずったままで、ただこの世に『存在している』だけだ)


それ故、この「バケモノ」じみた、サイボーグの男は。
音楽も、何であっても…まるで、「自分は楽しんではいけない」としているようで。
「…でも、僕は」
けれど、元気にとっては、それは何だか辛い、哀しいことのように思えたから。
この「死にたがり」の伯爵が、かわいそうに思えてしまったから。
…だから、つい、伝えたくなってしまった。
「いい、って、思ったよ…すごく」
彼の音楽が、素敵だった、と。
それを作り出せることが、素晴らしいことだ、と。
…例え、その言葉が、彼にとっては何の役に立たなかったとしても。
「ブロッケンさんのバイオリン…好きだよ」
「…」
幼い少年の、飾り気のない、拙い…けれどもまっすぐな好意。
それを向けられた伯爵は少し戸惑ったのだろうか、しばし言葉を失う。
普段、周囲よりは畏怖と憎悪、忌避しか受けぬ我が身。
そこに突然かけられた純粋な温かさに、意表を突かれて面喰らったのか。
素直にそれを受け取るどころか…軽く首をひねり、こう言ってのけるのだ。
「…おかしな、ガキどもだ」
好意に、軽い嘲りで返す。
けれども、その言葉自体は悪いが…口調そのものは、心なしか穏やかだった。
「おかしなガキだな、お前は」
「ちょ、ちょっとお!」
だが、まあ…小さい子どもに、そんなかすかな機微などがわかるはずもなく。
繰り返すブロッケンの憎まれ口めいた言葉に、ぷんすか怒る元気。
「せっかくほめてるのに、そうゆう言い方はないんじゃない?!」
小学4年生にしては割と身長も低めのちびっ子が、胸を張って抗議する。
「そうゆうのって、よくないと思うなあー!」
世界征服をもくろむ悪の科学者、ドクター・ヘルの部下、破壊の権化たる機械仕掛けの伯爵に向かって、ぷんぷん怒る早乙女元気。
むーっ、とむくれた顔で、さらに主張する。
「大体!僕の名前、『ガキ』じゃないし!…僕には、『早乙女元気』って立派な『名前』があるんだい!」
「…そうか」
そう、ちまっこい子どもだけれど、立派な「名前」があるのだ。
だからそう呼べ、と、邪悪の化生に要求する小学生。
…伯爵は、ただ、一言を返すのみ。
「そうだよぉ…『名前』は、とーっても大事なものなんだから!」
さらに、エルレーンもそこにかぶせてくる。
「名前」の大切さを力説する…
それは、「人間」の精神を、魂を固定する、重要なもの。
そのことを、彼女は自らの経験をもって強く強く認識している。
記憶を失ったあしゅらも、失ったそれを探し求めている…
それほどまでに大切なものなのだ、「人間」にとっての「名前」というモノは。
「ブロッケンさんは…『はくしゃく』ってのが『名前』なんだよね?」
「…はあ?」
…と。
エルレーンの口から、ぽん、と飛び出てきた、ピント外れの問い。
予想外の質問に、伯爵は我知らず眉をひそめる。
「だって、元気くんは『早乙女』がミョウジで、『元気』が名前…でしょ?
だから、ブロッケン伯爵さん、だからぁ…『ブロッケン』がミョウジでぇ」
「…違う」
どうやら彼女は素朴にも、「フルネームの上半分が名字・下半分が名前」と思い込んでいたらしい。
しかしながら、もちろん「伯爵」とは称号(タイトル)であって「名前」ではない。
「え、そうなの?…それじゃあ、ブロッケンさんの『名前』って、何て言うの?」
「…」
彼女の疑問は、止まらない。
止まらないままに、エルレーンは知らずと触れてしまう…
伯爵が、心の奥底に押し込めてしまったことに。
ブロッケンの眉が、ぴくり、と、不快気に上がる。
何かを即座に言い返そうとして、だが…一旦、口を閉ざす。
どう言えばいいかを、少々逡巡しているようだ。
さわさわ、さわさわ、と、そよ風が先を急かしてくる。
もう一度、男が、口を開く。
「…ない」
「?」
よくわからなかったらしい二人が、目をぱちくりさせる。
伯爵は、もう一度反復する。


「今は、もう…ない」


「ない…?」
「どうして…?」
実際のカタチのないモノ、それが「ない」…?
ブロッケンの言うことが理解できないエルレーンと元気。
…嘆息とともに、伯爵は吐き出す。


「…置いてきた」


「えー?『名前』、落としたの?どこにぃ?」
「お…お姉ちゃん、たぶんそういうことじゃないと思う…」
意味が飲み込めずすっとぼけたことを言うエルレーンに、さすがに元気が言葉を挟む。
それでも何やらわかりきっていない様子だったが…次に伯爵が見せた言動で、彼女もやっと理解した。
情で彩られない、凍てついた顔で。
機械仕掛けの伯爵は、先を続けた。
「…見てわかるだろう。我輩の姿を」
はっ、と、短く息をつき。
手にしたヴァイオリンと弓を、ケースに置き。
ブロッケン伯爵は、おもむろに自らの頭に両手をかけ…ぎっ、と、ひねった。
刹那、ぎりっ、と音を立て、本来であればそこで断ち切れるはずのない場所で…首が、取れる。
左腕が、そのまま抱え込む。彼の、首だけを。
その動作は、どこか露悪的で。
自分が人間離れしているさまを、二人に見せつけんとしているようで。
左腕に抱えられた生首が、淡々と言い放つ。
異常な姿で、異常な言葉を。
「我輩は…一度死んでいる。死んで、こんな有様になっている」
その口調はまったく、感情のぶれというものが感じられなかった。
平坦に、そう吐き捨てる。
もうすでに、彼の中でそれは「どうでもいい」ことであるかのように。
「…」
元気の中で、またあの時にあしゅら男爵が言った言葉がよぎる。
…彼は、今ここに在ることすら、倦んでいるのだ。
「だから、その時に。『人間』としての『名前』は…置いてきた」
そう、それ故に。
今の自らを、彼はその端的な言葉で表現する。
彼は自分を最早「人間」だとは思っていない、現在の自分の姿を―
「『バケモノ』に、『人間』の『名前』など…必要はないからな」
眉一つ動かすことなく、ブロッケンはそう断じた。
強張った、表情のない顔で。
その中で、異様を放つのは、その瞳…
…黒い瞳。
そう、黒い瞳だった。
真っ黒で、何の光も映さない。
「でも…」
それでも。
そのうろ暗い瞳に気おされながらも、エルレーンは言った。
かすかに細い声が震えたのは…怖じたからではない。
「ブロッケンさんは…私を、助けてくれたよ」
それは、こころがさざめいたから。
自分と同じモノを見た、自分と同じ哀しみを知っている、その男の言葉に。
闇に落ちた自分に、過去を語り…慰めの言葉をかけてくれた、その男に。
「だから、ブロッケンさんは…『バケモノ』じゃないの」
透明な瞳に、少女の網膜に、さかしまに映り込む、軍服姿の男。
己が頭蓋を、己が腕で抱えるという、「人間」では到底あり得ない身体。
デュラハン(首なし騎士)のおぞましいその有様を見て、彼女は―そう断言した。


「…」


少女の声が、森の空気の中に散っていく。
ブロッケン伯爵の黒い瞳が…わずかに、揺らめいた。
それでも彼は、「バケモノ」たろうとする彼は…冷たく少女の言葉を拒絶する。
「そんなもの…ただの、成り行きだ」
「…」
冷淡な拒否。
エルレーンの表情を、哀しみがかすめる。
―けれども。
「…でも、」
今度は、少年の声。
元気は見つめる。
「バケモノ」を。
あの戦いのさなか、エルレーンを決死の覚悟で…己の腕すら失うことすら辞さぬ覚悟で、救った彼を。


「誰かを、助けることができるヒトは…『バケモノ』なんかじゃ、ない、って…僕も、思う」


「…」
刹那。
…伯爵の表情が、一瞬。
一瞬だけ、変わったのを、二人は確かに見た。
軽く目を見開き、自分たちを見返した、その瞳。
軽い驚きと、困惑と。
苦笑のような、微笑のような。
ただ、それだけ。
それだけなのに、何故か…伯爵の表情は、ひどく「人間」くさいものに見えたのだ。
凍りついた、自ら凍りつかせた、常に彼が張り付けている仮面ではなく―


―しかし。
それはやはり、一瞬。
ほんの一瞬だけの、油断。
元気たちの視線に気づいた伯爵は、すぐさまに…
冷酷で冷淡な仮面で、自身の惑いを、「人間」らしさを覆い隠してしまう。
「ふん…」
それは、そんな自分の姿を見られた、彼の照れ隠しなのかもしれない。
視線をわざと、遠くへ投げて。
機械仕掛けの怪人は、再び首をあるべき場所に据え。
子どもたちのほうを見ずに、またヴァイオリンを拾い上げ、構え…弓を引く。
黒い夜。満天の星々。何処か哀しげな旋律。
ブロッケンは、ただただバイオリンを奏で続ける。
エルレーンと元気は、最早…口を開くこともせず、孤独なそのメロディーに耳を傾けていた。


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