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◆ 場違いな覚醒
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浅間学園の午後。
外を冷たい風が吹き抜ける中、各教室では様々な授業が行われている…
そして校舎の二階、中ほどに位置する2-Cの教室では、物理の授業が展開されていた。
「…というわけで、この公式を使って…」
多少理屈っぽい説明を好むこの教師の授業は、眠気を誘うものとして生徒たちに認識されている。
授業開始二十分ほどにして、すでに数人の生徒は遠い世界に旅立っていた…
柔道部主将、巴武蔵も当然のようにその中に入っていた。
教室の真ん中のあたりの席では、流竜馬が真剣に黒板を見つめて、公式をノートに書き取っている…
生真面目な生徒である彼は、授業中の態度も実にまじめで優等生的である。
多少理数系が苦手だと自分でも理解しているだけあって、この物理の授業はなおさら真剣にならざるをえない。
だが、今日はそんな彼がちょっとばかり奇妙な反応を示した。
それは、授業が始まってちょうど30分ごろだった。
ごんっ、という音が突然教師の説明に割り込んだ…
その音は割と大きかったので、ぼんやりしていた生徒たちもはっとなってその音の発信源を探す…
が、クラスメートたちが見たのは、普段では見慣れない、変わった光景だった。
…あのまじめな流竜馬が、がっくりと首をたれて教科書の上に突っ伏している…
両手はだらんと垂れ下がり、全身脱力してしまったようだ。
先ほどの音は、彼が居眠りした途端、机に頭をぶつけたときの音らしい。
「ほーう、珍しいこともあるもんだな」
それを見た教師が思わずそう口にした。
…どの授業でもたいていはまっすぐ前を向いて授業を聞く流が、めずらしく居眠りをしているのだ。
神隼人もさっきまで眠っていた巴武蔵も、彼の異変に気づいて思わずそちらに目を向ける。
「ちょ、ちょっと、リョウ君…」
さすがに隣の席に座った早乙女ミチルが彼の体を揺さぶって起こそうとする…
と、軽く肩を揺さぶると、リョウはがばっと身体を起こした…まるで、今スイッチが入った、とでも言うように。
「お、お目覚めみたいだな、流」
教師がおどけた口調でそんなことを言い、生徒の笑いを取った。
「…」…だが、おかしなことに、リョウ自身はまったくぼうっとしている。
何が起こったのか、とでもいうように、ゆっくりと自分を見て笑うクラスメートを見回している…
「…?!」
それを見て瞬間的にミチルは気づいた。
(…りょ、リョウ君じゃない!…これは…)
「はっはっは、流!疲れてるみたいだな。…だが、授業中に寝るのは勘弁してくれ…眠気覚ましに、一問いっとくか?…この問いを前に出て解いてもらおうか」
が、教師はそんなリョウの異変になど気づくはずがない。
彼はまっすぐな目で自分を見つめる流竜馬に、黒板に書かれた問題を前に出て解くように指名した…
「…?」
…それを見て、首をかしげる流竜馬。…まるでそのしぐさは、小さな子どものようだ…
「あ、あの、先生!…りょ、リョウ君、き、気分が悪いそうです!わ、私…ほ、保健室に連れて行きます!」
慌てたミチルは、間髪いれず立ち上がってそう大声で言い放った。
がたんといすを跳ね上げて立ち上がり、リョウの腕を取って立ち上がらせる。
「?…何だ、そうなのか流…ならそうと早く言いなさい」
「…え?…なあ…っ?!」
教師の言葉に思わず彼が口を開こうとした…
少し鼻にかかった、甘えた口調…それは、流竜馬のしゃべり方ではない…が、出る前に、慌ててミチルがその口を手でふさぐ。
「さ、さあ、早く行きましょ、リョウ君!」
「…?!」そして半ば強引に彼を教室の後ろのドアへと引っ張っていく…
数人のクラスメートが心配そうにその様子を見守っている。神や巴も…
ぴしゃん、と音を立ててそのドアが閉められた。
…少しこのハプニングにざわついた教室であったが、再び教師が公式の説明をはじめると、また元の弛緩した空気が戻り始めた…

ミチルは問答無用でリョウをぐいぐいと引っ張っていく…一刻も早く、人のいないところに連れて行かねば。
授業中の校舎の廊下には、ほとんど誰もいない。
…やがて廊下の片隅まで来たときに、今までミチルのされるがままだったリョウが、自分の口をふさいだままのミチルの手をどけて、ぷはっと大きく息をついた。
「…んもう、ミチルさん、痛いってばあ」
「!…あ、ご、ごめんなさい」
…そう、それは「エルレーン」だった。
彼女の甘い声がしいんとした廊下にいきなり響いたので、ミチルは誰かに聞かれやしなかったかと気が気でない。
慌てて彼女から手を離したが、ここにこのままいるのはまずいと思い、すぐに彼女の手をとって階下に降りていく…
「苦しい、この服…首が苦しいの」
階段をミチルに手をひかれながら下りていくエルレーン。
その途中で、学生服の第一ボタン、第二ボタンを開け放った…着慣れないその奇妙な服は、どうにもこうにも呼吸が苦しい。
「…こ、ここなら…」
校舎を飛びで、駐輪場までやってきたミチルとエルレーン…
授業中の今は誰もいるはずがないし、おまけに人気がまったくない。
ここなら、「エルレーン」になってしまった「流竜馬」を誰かに見られる心配はない。
「…ここ、…ひょっとして、『ガッコウ』…?」
きょろきょろとまわりを見回していたエルレーンが、ぽつりとミチルに問い掛ける。
「そ、そうよ…」
「わあ、やっぱりそうなんだ!…ねえねえ、じゃあ、ここでみんな、いろんなこと勉強するんだよね?!…私も、したい!」
と、彼女の答えを聞いた瞬間、エルレーンの表情がぱあっと明るくなった。そして、明るい声でこう言った。
「え、ええ?!」
「ミチルさん、連れてって…☆」
ミチルを上目づかいでじいっと見つめ、甘えた声を出すエルレーン…
学生服(もちろん男子用の詰襟だ)を着た「流竜馬」がそんなことをやっているのは、とんでもなく奇妙な印象を与える。
「…だ、ダメよ、エルレーンさん!」
もちろんこんな状態のリョウを、教室に戻すことはできない。
戸籍上「男」であるリョウは、当然この浅間学園でも「男子生徒」…その身体は「女性」でも。
しかし、今の状態のリョウはまったく女っぽいとしか言いようがない。
クラスメートがパニックに陥り、後々リョウにとって不利な状況を生むのは明白だ。
彼は自分の身体が「女性」であることを秘密にしているのだから…
「えー、どうしてぇ?!」
「だ、だって、ほら…」
不服げな声をあげるエルレーンを何とか説得しようと言い訳を考えるミチル…
と、はっと気づいたそれを、彼女は一息で言い切った。
「そ、そうよ!…研究所でお父様が待ってるんだから!…エルレーンさんが起きている間に、早く行かないと!」
「…!…そうだね、私…研究所に、行かなきゃ!」
そのことを聞いた瞬間、ぱっとエルレーンの顔がまじめなものになる。
確かに「ガッコウ」は興味深いが、ゲッター線ソナーのほうがもっと重要だ。
「で、でしょ?!…じゃあ、早く行きましょ!」
内心ほっとしたミチルがそう言って促す…
と、エルレーンが立ち居並ぶ自転車やバイクの列から、リョウのサイドカーを見つけたのに気づいた。
ポケットに入っていたキーを見つけ、それを引き出すエルレーン。
「ミチルさん、これで研究所に行こう!これなら、歩いていくより、ずっとはやいよ」
「そ、そうね」
彼女も同意し、サイドシートに乗り込む。
「道、教えてね」
「ええ、わかったわ」
「じゃあ、行くよ!」
と、いうやいなや、エルレーンはいきなりエンジンを全開にし、サイドカーは再び黄色い弾丸と化した!
…そして、ミチルはムサシがかつて体験した恐怖を身を持って味わうことになった。
「え、きゃ、きゃあぁぁああああぁ!!…い、いやぁああぁぁああぁああぁ〜〜〜っっ…?!」
「きゃはははははは…!」

早乙女博士は驚きのあまり、派手な音を立てていすから立ち上がった。
…開いた司令室の入り口から、学生服姿の娘がはいってきたのだ。
…今の時間は、まだ午後二時を回った程度。高校はどう考えても、まだ授業をやっている時間帯だろう。
「?!…み、ミチル!何をやってるんだ?…学校へ行きなさい、学校へ!」
今の時間帯は、当然学校にいるはずの娘の姿を見た早乙女博士が、親としてあたりまえのことを言う。
「ち、違うのお父様…」
だが、彼女が説明する前に、廊下からぱたぱたと走ってきた学生服姿の「リョウ」が割り込んだ…
「博士〜!きゃはははは!…私、急いで来たよ!博士のために、急いで来たの!」
「?!」
学生服を着た「リョウ」のその声は…かわいらしい、あの少女の声だった。
それでようやく、博士にも娘が学校を早引けしてきた理由がわかった…
「え、エルレーン君…が、学校で目覚めてしまったのか…」
「そうなの…で、急いで連れてきたんだけど」
「ま、まあ、ちょうどいいんだが…ゲッター線ソナーについて、彼女の力を借りたいと思っていたし」
「なあに、博士?私は何をおてつだいすればいいの?」
手を胸の前でからませ、軽く小首をかしげて微笑むエルレーン…
詰襟を着た「リョウ」の身体がそうする有様は、彼の両親が見たら卒倒しそうなほど奇異…かつ、愛らしいものだった。
と、その時だった。…司令室のドアが再び開き、珍客がやってきた。
世界発明研究所所長・大枯文次と彼のロボットアサ太郎、そして半ば彼の子分となっている、浅間学園の生徒ジョーホーの三人組だ。
「よーう、早乙女博士ー!頼まれてたパーツ、完成したぜー!」
「!…おお、文次君!」
博士が顔をほころばせる。
そう、文次が優れた技術者であることを見込んだ早乙女博士は、製作中のゲッター線ソナーのパーツをいくつか彼に作らせていたのだ。
「あら、文次君!」
「!…あ、ああ、ミチル姫じゃないですかー!何でまたこんな時間に?」
いとしのミチルを見つけた文次の顔が一気にやにさがる。
途端に照れてしまったのか、もじもじしはじめる文次親分。
「そうですよミチルさん、今は学校の時間じゃないですか」
ジョーホーも突っ込みを入れる。
「あら、それをいうならジョーホー君だって。学校はどうしたの?」
ミチルも負けずに言い返す。
「いや、親分のパーツ作りの手伝いでここんとこ休みを取ってるんですよハイ…」
「おいおい、学校にはちゃんと行きたまえよ、ジョーホー君」
博士も一応たしなめておく。
…と、ジョーホーの視界に、もう一人珍しい人の姿が映った。
流竜馬がミチルの隣に立っている…学生服姿のままで。
「おや〜、珍しいですねぇ。まじめなリョウさんまで学校サボってるんですか」
からかい口調でそう言うジョーホー。
文次親分やアサ太郎も、にやにや笑って彼を見ている。
だが、彼らはリョウの返答に度肝を抜かれることになった。
「…ジョーホー君!…久しぶりなの!…うふふ、私のこと…覚えてる?」
「?!」
三人の顔があまりの驚きで石のように強張った。
…その「リョウ」の声は、まるであまえんぼうの女の子のように少し鼻にかかった声。おまけに彼は女言葉でしゃべった…!
そして、そのしぐさはどう見ても女っぽいとしていいようがない。詰襟を着ている分、なおその異様さは強調されて見える…
「え、お、ああ?!」
「な、流、お、お前…き、気でもおかしくなっちまったのかよ?!」
口をぽかんと開けたまま、声にならぬ声を漏らすジョーホー。
文次親分は頭の上でくるくると立てた人差し指を回すジェスチャーとともに、率直に意見を述べる。
しかし、彼の次の言葉は彼らを更なる混乱に叩き込んだ。
「…私…エルレーンだよ、文次君」
驚く彼らを見つめ、にっこりと笑って「リョウ」は言った…
「え、ええ…?!」
目を見開き、「リョウ」を見つめるジョーホーとアサ太郎…
その言葉はまるで冗談のような内容だったが、とても彼の様子からは冗談を言っているようには思えない…
「お、おめー…死んじまったって、確か…」
そう、あの最後の戦いの後、彼らはゲッターチームからそう聞いていた。
あの少女、リョウのクローン、エルレーンは…死んだのだ、と。
「…ふふ、そうだよ、文次君…私、『死んだ』の。…だから、このこと…私のこと、リョウには…言わないで、おいて、ね」
だが、その「リョウ」…エルレーンは、どこかさびしげな微笑みを浮かべながら穏やかにそう言った…
その微笑みは、間違いなく彼女のものだった。かつて、自分たちの研究所にふらりと現れた、不思議な少女の…
「…」
「…ドーイウワケダカサッパリワカランナー、オヤブン」
「お、おう…」
困惑を隠せない文次親分。アサ太郎の言葉に、首をかしげながらうなずく。
「…エルレーンさんは…リョウ君の中で、一緒に生きているの。リョウ君はそれを知らないけど…
でも、こうやって時々目覚めて、私たちに力を貸してくれているのよ。恐竜帝国を倒すための…」
「そ、そうなんすか…」
そこで、ミチルが説明を加えてやった。
…彼は、まだ「信じられない」という顔をしているものの、何とか理解しようとはつとめているらしい。
「じゃ、じゃあ…今は、もう、味方なんですね」
ジョーホーが素朴にそんなことを聞く…
以前あった時は、彼女はゲッターチームの…「人間」の「敵」だったのだ。
…エルレーンは、ふっと微笑んでこっくりとうなずいた。
「…そうかよ…」
彼女のその様子を見ながら、一瞬文次親分はふっと遠い目をした…
そして、ぽつり、とつぶやくように彼女に言った。
「…おめー…馬鹿なことしたなぁ」
「…?!」思いがけない彼の言葉に、はっとなるエルレーン。
…ミチルや博士、ジョーホーやアサ太郎も、突然そんなことを言い出した文次を驚きの目で見つめている。
「だってよぅ…結局、こういう風によぅ、…ゲッターチームの仲間になるんだったら…あんなこと、しなくてすんだじゃねえか、…あんなこと…」
彼は伏し目がちになりながらも…時々、言葉に詰まりながらも、思いのたけを口にしていく。
…あの満月の晩、エルレーンが自殺をはかったことを、彼はいまだに忘れられずにいたのだ…
そして病院で彼女が泣きながら叫んだ、身を切るような苦悩の言葉も…
「…」
エルレーンは無言でそれを聞いている。
「あんな馬鹿なまねまでしてよ…つらい思い、することなかったんじゃねえか。もっと早くに、あいつらと…よぅ」
それは、彼だけの望みではなかった。
リョウも、ハヤトも、ムサシも、ミチルも、博士も、…そして、エルレーン本人も望んでいながら…かなえられなかった、そうすることができなかった望みだった。
「…ふふ…そうだね、文次君…」
しばらくの空白の後、軽く笑いながらエルレーンはそう言った…
「私…馬鹿だったね。…うん、きっと、そう…」
自分でもそう言いながら、彼女はうなずく…
そのときのことを思い出したのか、一瞬その瞳にふっと影がよぎった。
「…でも、あの時は…あの時は、ああしかできなかった。私、独りぼっちだったから。…独りぼっちなのが、何よりも怖かった…」
静かな口調で、エルレーンはそう言った。
今は遠いその日を、かつてあんなにも苦しんだ日を…そして、もはや怯える必要のない、「孤独」という感情を思い起こしながら。
「…」
「でも、今は違う。リョウと、ゲッターチームのみんなと一緒にいられるの…」
「うふふ…だからね、文次君…」
そして、彼女はにっこりと笑った。
それは、とてもとてもやさしげな笑み…
「私…今、とっても幸せだよ…」
「…」
「だから…助けてくれて、本当にありがとう、文次君…」
そう言って、彼女はもう一度文次親分に礼を言った。
あの日、自分の命を助けてくれた彼に…
「…て、てやんでい!心配かけやがって…もう、あんな馬鹿なことすんじゃねえぞ…!」
彼女の笑みに、じいんと胸に込み上げるものを感じた文次親分。
…思わず、顔を伏せてぶっきらぼうに言い放つ…
だが、彼の顔は笑っていた。穏やかな満足と安堵の笑みが、そむけられた彼の顔にあった…

「ミチルさん、リョウの奴は一体どうしたんだ?」
それから数時間後。研究所の控え室にいたミチルが、ハヤトからの通信を受け取った。
「あ、あの…あの時、リョウ君…エルレーンさんになっちゃったのよ。…で、今、研究所にいるの。…今ちょうど、眠っちゃったところ…」
腕につけた通信機越しに、ハヤトに説明するミチル。
ちらっと「リョウ」の方をふりむく…その当のエルレーンは、長椅子の上でゆったりと身体を伸ばし、静かな寝息を立てている…
「え…?!…や、やっぱりそうだったのかよ…」
「そうよ、だから悪いけどリョウ君の荷物持ってきてあげてくれない?…うっかりそのままにしてきちゃったのよ」
「ああ、わかった」
短い返事を残して、彼からの通信は切れた。…ふうっとため息をつき、ミチルは長椅子のほうに歩み寄った。
満たされた仔猫のように眠るエルレーン。彼女の身体にそっと毛布をかけてやりながら、ミチルはそっとつぶやいた。
…微笑を浮かべて眠りの中にたゆたう彼女を見ながら、ミチルは先ほどの彼女の言葉を思い出した…
「…そうね、エルレーンさん…きっと、それが一番いいの…リョウ君だって、きっと…それを一番、望んでたはずだから…」
と、エルレーンは軽く寝返りをうった。
かすかな寝言をつぶやくその愛らしい寝顔を見ながら、ミチルはくすっと微笑んだ…

「…ない、ない、ない!」
「どうしたんだよ、リョウ?」
「…ないんだ、俺のカバンが!」
自分の机のまわりやベッドなど、思い当たるところをがさがさ探し回るリョウ。
彼が今必死に探しているものは、自分の学生カバンだった。
あの後目覚めたリョウは、やはり自分の途切れた記憶を気にしながらも不承不承寮への家路についた…
ミチルやハヤト、ムサシはやはり「いつもと変わらなかった」というだけで、何の問題もなかったようだ。
それに、もう数回似たようなことがおきているので、慣れてしまったというのも本音だった。
…しかし、寮に帰った途端とんでもないことに気がついた。
学校にいたときに持っていたはずの(次に目覚めたときは研究所にいたのだが)学生カバンがないのだ。
「…え、えーと…が、学校に置き忘れでもしてきたんじゃねえの?」
ムサシが思いつきで適当なことを言う(彼は真相を知っているのだが)。
「そんなはずあるかよ!教科書、ノート、弁当…財布まで入ってんだぞ?!そんなもの忘れてくるかよ!」
一度探した机の周りをもう一回探しながらリョウがそう答える。だが、当然のようにそこにはカバンはない。
「うわーヤベぇ!…おまけに俺、明日の数B当たってんじゃねえか!…くそッ、そのノートもねぇ!」
とうとう思い当たるところがなくなってしまい、頭を抱え込んでしまうリョウ…
やらねばならない宿題が、このままではできない。
なにしろそのノートと教科書は、なくなったカバンに入っていたのだから。
が、ちょうどその時だった。部屋のドアを開けて入ってきたハヤトが、リョウの目の前にあるものを差し出す…
それは、まさしくリョウの探している学生カバンだった。
「ほら、こいつだろ」
「!…あー、それだよ!サンキュー、ハヤト!」
ぱっとリョウの顔に安堵の笑みが浮かぶ。
…が、一瞬の後、ふっと脳裏に疑念が浮かぶ。
「…っかし、一体俺どうしたんだ?これどこにあった?」
「…寮の玄関に落ちてたぞ」不思議そうに尋ねるリョウに、ハヤトは口からでまかせを言った。
「玄関…?!…俺、一体何やってんだ…?!」
自分でも自分のやったこと(本当はそうではないのだが)が理解できず、困惑気味のリョウ。
…だが、なにはともあれ、カバンは手元に戻ったのだ。
「…ま、何はともあれ、これで宿題できそうだ。ありがとな、ハヤト!」
ハヤトに笑顔で礼を言い、カバンから数Bの教科書とノートを取り出し、早速あてられている問題に取り組むリョウ。
…と、その自分をハヤトが軽い微笑みを浮かべてみていることに気づいた。
「…何だ、ハヤト?」
「…いや」
軽く唇の端で微笑って、ハヤトはふっと視線をそらした。
そんなハヤトのしぐさに、リョウは一瞬不思議そうな顔をしたが、また机の上に広げた数学の宿題に取り組み出した。
「…」
ハヤトはその横顔をちらりと見ながら、どんな顔をしてあいつはこんなことを言ったのだろう、と、ふっとそのことに思いをはせた。
それは、ミチルから聞いた彼女の言葉。
今はリョウの中で眠る少女が口にした、あの言葉…
それが本心であることを、ハヤトは強く願った。




『私…今、とっても幸せだよ…』





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